春が来て暖かくなって来ると寒い時期には求めなかったバナナも食べたくなる。
マクロビオティックのベース、陰陽五行の考えで南の暑い地域では体を冷やす物がとれ、北の寒い地域では体を温めるものが取れるという自然の摂理。バナナは南で取れるものだから、体を冷やすもの。やはり夏の暑い時に食べたくなるというのは素直な体の反応。さあバナナが美味しいと感じる季節がやってくる。
バナナというとトラウマのように体に染み付いている話が、アントニオ猪木のおじいちゃんの話。
アントニオ猪木を知らない人はいないと思うが、その壮絶とも言える生い立ちは知らない人も多い。
「私には父の記憶がほとんどありません。母は父の石炭工場経営を引き継ぎ、女手ひとつで私ら家族を養った。よって私にとっての親代わりは、祖父だったんです」
祖父を慕い中学生の時まで祖父の布団に潜り込んで寝ていた。アントニオ猪木さんは横浜市鶴見区で11人きょうだいの9番目の六男として生まれた。5歳になる直前に父が急死。母と離れ、祖父の家で幼少を過ごした。そして祖父の石炭事業が時代の需要減少とともに傾き、祖父の声のもと一家はブラジル移民に一縷の夢を託す。猪木14歳の時である。
一家総出で船でブラジルを目指してる途中、パナマ運河を抜けて最初の寄港地クリストバルの港に着く。その港には青いバナナがたくさんあった。この時代の日本ではバナナはたいへんなご馳走だった。祖父はたくさんのバナナに喜んで青いバナナを買い、そしてベネズエラの沖で、そのバナナのシブにあたり、腸閉塞を起こし自分が夢見た新天地へ辿りつく前に海上で亡くなってしまう。
一家が最も頼りにしていた祖父の死により、猪木たちは見知らぬ土地で、大きな不安を抱えたままの新生活を余儀なくされた。
その後、ブラジルに来た力道山に見出されて行くのだが、言い出しっぺであり、皆の慕う祖父が1人だけ辿り着けずに大好きなバナナで死んでしまうというこのストーリーが、中学生の自分には切なすぎてほとんどトラウマとなる。
ああ切ない。
その後コタンをやるようになり、届くまだ青みがかったバナナを見ると異国の地でじいちゃんが喜び興奮している姿を思いだしてしまう。
さてコタンで扱うバナナは有機栽培のものである。
それは栽培時はもちろん、輸送時にも農薬や燻蒸薬を使用せず届いたもの。万が一輸送時に虫が発生し、燻蒸したものは有機バナナとしては流通しない。
コタンでのバナナの扱いを始めた当初に聞いた話で、船乗りの間で交わされる合言葉のようなフレーズがある。
「バナナ船の風下には立つな」
これはバナナ船での燻蒸薬が強烈だという表現。海の上でバナナ船を見かけたらなるだけ風下には船を走らせない。
この話を聞いてからというもの、青いバナナに加えて、慣行栽培のバナナもなるだけ食べないようになった。
そして太平洋を船で横断する際は、バナナ船の風下には立たないように気をつけてようと思っているのだがまだその機会は来ていない。