2008.07.27

    チベット問題。日本問題。   ~その2~

 ダラムシャラを歩いていて、目に入るチベット社会。目にうつるその生活がどう成り立っているのかが、まずの疑問でそれらをダラムシャラに来て18年になるトプテンさんに聞いた。
 
トプテンさん 「ほんの少し前まで赤い衣をまとった僧が前を通ると、通り過ぎるまで頭を下げるというような感じでしたが、今はこのような感じです。昔とはだいぶ風紀は乱れています。」
 街を歩くチベット僧を見ていると、携帯で若者らしくしゃべっている人やカフェでカフェラテを楽しむ人、僧というよりも学生という印象が強い。
  
                   トプテンさんに聞く。

「このインドの土地でチベット亡命政府のチベット人に対してのきまりや法律はありますか?」

トプテンさん「あります」

「規則があるということは、それを守らなかった人に対する何か罰もあるということですよね?」

トプテンさん「どういう意味ですか?」

「たとえば、きまりを破った人をある期間拘束するとか、日本ではそのような刑罰のもっとも重いものは死刑です。」

トプテンさん (あわてるように)「ないない。そんなのはないです。ありえないです。」

トプテンさん「チベット政府の裁判所があり、チベット政府内で解決できるものはそこで解決します。殺人とか、そんな大きい事が起こればもうそれはインド政府がすぐ来ますから。そちらになるでしょう。でも僕が18年ここにいてそのような大きい事件はないです。」

死刑なんてありえないです。とんでもない、という具合に否定したトプテンさんの態度に、まだ息づいているチベット社会の剛健な道徳観を感じました。個人が人を殺すという手段を選ぶ事があるかもしれないが、国がそれをするということはありえないという感じ。

 日本では現在でも死刑がおこなわれている。現在の鳩山法務大臣は去年の福田内閣発足の再任以来13人の死刑を執行している。異例のスピード。 道路工事の年末調整でもするかのような決定。 日本人みんな自分の国で死刑がおこなわれていることは知っていても、完全にその環境とは隔離された見えない見せない場所で生活している。
 その見えないというのがやっかいだ。見えなくともこの社会環境のつながりにそれはあり、その波長の中に暮らしていることには変わりわない。
 死刑が犯罪抑止力になるというのは今や科学的にも根拠のない幻想で、逆に死刑を望むための凶悪犯罪もおこったりしている。
 ある人が言った、「国が人を殺さないというところから、その心が広がり、道徳心が育つんです。」という意見には本当にそうだろうと思う。
 トプテンさんの中にあるチベットの心が「国が人殺しなんてありえないですよ」と言った。
それは国の心が人の心を育てた具体的な形にも見えた。

 死刑廃止とか存置という論議の前に、それが実際あるということを知ること体感すること。活字の中にではなく、この環境のつながりのなかに生々しくあるということ。
 先進国と言われる国の中で死刑を行っているのは日本とアメリカだけです。
EUにおいては、加盟国の条件として死刑廃止があるほどで、死刑があるということはどうやら当たり前のことではないみたいです。
 
 あたりまえ、当然、しかたない、で思考をやめずに知っていくことは大事だし、楽しい。

もうちょっとお話しさせて・・     明日に続く・・・